結論から言えば、他人に期待すること自体は、悪いことではない。
手放していいのは、相手がどう動くかによって、自分の安心や価値を決めることだ。
残していいのは、相手の可能性を信じ、自分の関わり方に心を尽くすことである。

夜の窓辺で、パソコンを前に返事を待つ女性

「お願いしていた件、いかがでしょうか」

送信ボタンを押す指が、少しだけ重い。先週お願いした件の返事は、まだ来ていない。忙しいのだろう。そう思って、しばらく待ってみた。しかし、何日たっても、受信トレイに相手の名前は現れない。

言葉を選び、角が立たないように催促を送る。すると今度は、すぐに返事が来た。「すみません、やります」。

ところが、締め切りの日の夕方になっても、何も届かない。すっかり冷めたコーヒーの横で画面を見つめながら、心の中で小さくつぶやく。

「もういいや、この人」

そして、ため息とともに、相手の分まで自分で片づける。そうやって、人に期待することを少しずつやめてきた。そんな人も多いのではないだろうか。

しかし、「もういいや」と思ったあとに残るのは、すっきりした気持ちだけだろうか。

他人に期待するのは、いいことなのか。それとも、よくないことなのか。

はじまりの問い──性善説の私と、性悪説の友人

20年以上前、私は中学校の教員だった。当時の私は、他人に期待することは良いこと、そうした方がいいことだと信じていた。

理由は、ピグマリオン効果だ。教師が「この子は伸びる」と期待をかけると、実際に子どもの力が伸びていく。この考え方は、教員だった私にとってごく自然なものだった。期待しなければ、何も始まらない。そう思っていた。

私の性格も、純粋だった。自分と他人は違うと理解しつつも、他人はみんないい人だという前提で尊重する。そして、他人は優れた結果を残す。そう信じて生活していた。「他人は変えられない」という言葉は、意識したことさえなかった。

ところが、大手企業に勤める友人は、まったく違う考え方をしていた。

「私は、他人には一切期待しない」

友人は、自分で仕事をよくこなす人だった。「期待しただけ損する」「センスが違うから」。そう言っていたのを覚えている。

友人は上司として、部下に指示を出し、目標も与えていた。しかし、期待はしていない。考え方もキャリアも、自分とはまったく違う部下たち。

その中で友人は、「自分で動くしかない」という結論に至っていたようだ。そして、自分は性善説ではなく性悪説で考えている、と言い切っていた。

激しい競争の中で生きてきた人の、魂のこもった「期待しない」。それは私にとって、とても新鮮だった。友人は、どんどん出世していった。

友人はよく、部下がなかなか動かないこと、そのため全部自分が指示してやらせていることを話していた。

「それだと、その人は伸びないんじゃない?」

そう聞くと、友人は「教えなきゃ分からないから」と答えた。

確かに、教えてもらえなければ、人は動けない。自分で考えて動くのは、その先の応用編だ。

友人は、その過程を淡々と、当たり前のようにこなしていた。その姿が、私にはかっこよく見えた。他人に期待せず、自分で動く。それが、潔い、良き社会人の姿に思えたのだ。

はっきりしたきっかけがあったわけではない。少しずつ、私の中で「他人に期待しない」が占める割合が増えていった。そして、こう考えるようになった。

他人は変えられない。しかし、自分が変わることによって、他人が変わることもある。

私にとってこれは、「他人に期待しない」と同じ意味の言葉だった。

期待する私と、期待しない友人。どちらも正しいように思える。しかし、場合によって、文脈によって、答えは変わるはずだ。では、期待はどんなときに人を伸ばし、どんなときに人を苦しめるのだろうか。

扉を開ける前に、この記事でいう「期待」を整理しておく。

期待の種類例この記事での扱い
予測「今日までに返事が来るはず」外れると苦しくなりやすい
要求「締め切りまでに出してほしい」言葉にして伝え、守られなければ対応を変える
可能性への信頼「この人には、できる力がある」手放さなくていい
無条件の受容「できてもできなくても、あなたの価値は変わらない」温かい期待の土台になる

この問いを確かめるために、私は三つの扉を順に開けてみることにした。脳科学、心理学、そしてスピリチュアルである。

一つ目の扉──脳科学から見た「期待」

最初の扉で見えてきたのは、期待が外れたときのつらさが、心の弱さだけではなく、脳の自然な働きとも関わっているということだった。

予測する脳(予測符号化)

神経科学者カール・フリストンらが提唱する予測符号化という有力な理論では、脳は外の世界をただ受け取るのではなく、「次はこうなるかもしれない」という見通しをつくり、現実とのずれから更新していくと考えられている。

そのため、相手の反応について何らかの予測を持つこと自体は、自然なことだ。したがって、「期待しないようにしよう」と決めても、脳が見通しを立てることは止まらない。期待をやめるのが難しいのは、意志が弱いからとは限らないのである。

窓辺でスマホを見つめる女性と、先の見通しを描く脳のイメージ

報酬予測誤差(ドーパミンの研究)

1990年代、神経科学者のウォルフラム・シュルツらは、サルの実験で次のことを明らかにした。

ドーパミンを出す神経細胞は、予想より良いことが起きると活発になり、予想どおりのときはほとんど変化せず、予想より悪いことが起きると活動が落ち込む。これは「報酬予測誤差」と呼ばれている。

この研究から、少なくとも報酬を学習する場面では、結果そのものだけでなく、「予想と結果の差」が強く働くことが分かる。そして、返事が来ない苦しさにも、「来るはずだった」という見通しとのずれが重なっているのかもしれない。

社会的な痛み

さらに、心理学者ナオミ・アイゼンバーガーらは2003年、仲間外れのような社会的排除を経験したとき、身体的な痛みの不快さにも関わる脳領域と重なる反応が見られた、と報告している。

もちろん、返事が来ない痛みを、身体的な痛みと同一視することはできない。それでも、人とのつながりが脅かされたと感じることは、強い苦痛になりうる。期待が外れてつらいのは、あなたが弱いからではないのだ。

私の場合

ここで、友人の言葉を思い出す。「期待しただけ損する」。報酬予測誤差の研究を知ると、この言葉には脳の仕組みから見てもうなずけるところがある。期待を高く置くほど、同じ結果でも「足りない」と感じやすくなるからだ。

一つ目の扉を開けた時点では、友人の「期待しない」に軍配が上がったように見えた。

二つ目の扉──心理学から見た「期待」

次の扉で問われたのは、期待が人を伸ばすとき、本当に働いているのは心の中の期待なのか、それとも関わり方なのか、ということだった。

ピグマリオン効果とゴーレム効果

期待が現実をつくるという考え方の出発点は、社会学者ロバート・マートンが1948年に名づけた「自己成就予言」にある。思い込みに沿って人が行動することで、その思い込みが現実になってしまう現象だ。

これを教室で確かめたのが、心理学者ローゼンタールらのピグマリオン効果の研究だった。そして、ローゼンタールはのちに、期待が子どもに届くまでの道筋を整理している。

期待をかけられた子どもに対して、教師は無意識のうちに温かい表情で接し、多くのことを教え、発言の機会を増やし、丁寧に反応していたのである。反対に、「この子は伸びない」という期待が相手の力を下げてしまう現象は、ゴーレム効果と呼ばれている。

なお、その後の研究で、ピグマリオン効果は当初言われたほど大きくはないことも分かってきた。それでも、ここには大切な事実が含まれている。子どもの変化に関わったのは、期待という念だけではなく、期待を持った教師の関わり方だったのだ。

ユングの「投影」と「生きられなかった人生」

ユングは、自分の中にありながら気づいていないものを、他人の中に見てしまう心の働きを「投影」と呼んだ。

期待にも、この投影が含まれていることがある。たとえば、「わかってくれるはず」という期待。その奥には、「わかってほしい私」がいる。さらに言えば、自分で自分をわかってあげられていない寂しさが、相手への期待という形で外に映し出されている場合もあるのだ。

また、ユングは、親が生きられなかった人生ほど、子どもに強い影響を与えるものはない、という趣旨の言葉を残している。これは親子に限らない。

「あの人には、ああなってほしい」という強い期待の中に、自分が本当は生きたかった姿が隠れていることがある。そのため、期待が外れたときの怒りや落胆が大きいほど、そこには相手ではなく、自分自身のテーマが眠っているのかもしれない。

そして、ユングが人生の目標として語ったのは、他人を変えることではなく、自分の全体性に向かって歩むこと(個性化)だった。

アドラーの「課題の分離」

心理学者アドラーの考え方を紹介した本で広く知られるようになったのが、「課題の分離」だ。自分がどう関わるかは自分の課題であり、相手がそれにどう応えるかは相手の課題である、という考え方である。

期待が苦しくなるのは、相手の課題にまで手を伸ばしてしまうときだ。一方で、自分の関わり方に力を注ぐことは、いつでも自分の手の中にある。

私の場合

教員時代の私は、ピグマリオン効果を「期待する心」の力だと思っていた。しかし、研究が示していたのは、心だけではなく、関わり方の力だった。このことを、私はのちに、自分の仕事の場面で実感することになる。

二つ目の扉を開けて、問いは少し形を変えた。「期待するか、しないか」ではなく、「期待したとき、自分はどう関わっているか」へ。

三つ目の扉──スピリチュアルから見た「期待」

最後の扉が教えてくれたのは、期待が苦しみに変わるのは、結果をつかんで離さなくなったときだ、ということだった。

仏教の「執着」

仏教では、苦しみの原因は、渇愛、つまり「もっと」「こうでなければ」とつかんで離さない心にあると説く。期待そのものは、苦しみではない。しかし、「こうでなければならない」と相手をつかんだとき、期待は執着に変わる。

バガヴァッド・ギーターの「結果を手放す行為」

インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』には、行為そのものに心を尽くし、その結果には執着するな、という教えがある。力を尽くすことと、結果をつかむことは、別のものだという考え方だ。

指示を出し、目標を与え、自分で動く。しかし、結果を相手に求めて心を預けることはしない。友人の姿は、この古い教えとどこか重なって見える。

研究されていること──「非執着」

この「執着しない心」は、心理学の研究対象にもなっている。仏教の考え方をもとに作られた「非執着(ノンアタッチメント)」の尺度を用いた研究では、執着の少ない人ほど、幸福感や自分を受け入れる感覚が高い傾向が報告されている。

大切なのは、非執着とは無関心のことではない、という点だ。相手を大切に思いながら、結果をつかまない。手のひらを開いたまま、相手を信頼する。スピリチュアルで「手放す」と言われているのは、この状態のことである。

言われていること──内側の状態が、外に映る

スピリチュアルの世界では、自分の内側の状態が、そのまま外の現実に映し出されると言われている。心が整っていれば、整った出来事が起こりやすくなる。

反対に、執着が強くなると、相手とのあいだに重いつながり(コード)が生まれ、互いのエネルギーを消耗させるとも言われている。

これらは、科学的に証明されたものではない。

そして、これは、相手の不誠実さや加害、つらい出来事まで、自分の内側のせいにするという意味ではない。私にとっては、自分の状態を見直すことで、選ぶ言葉や距離の取り方が変わる、という意味である。

それでも、特定の人のことが頭から離れず、疲れ果ててしまう感覚に、覚えのある人は多いのではないだろうか。また、この考え方は、自分の中にあるものを他人に見るというユングの「投影」とも、どこか響き合っている。

私の場合

今の私は、自分が変われば他人が変わる、自分がいい状態であればいい状態が起きる、という感覚で生きている。振り返ると、それは結果を手放して行為に心を尽くすという教えや、非執着の研究が示している状態と、よく似ている。

三つの扉から、私が受け取ったこと

脳科学、心理学、スピリチュアルは、同じことを証明しているわけではない。しかし、この問いに向き合う私に、それぞれ別の角度から、同じような示唆をくれた。

脳科学は、見通しを立てることが脳の自然な働きであること、そして人とのつながりが脅かされると強い苦痛になりうることを教えてくれた。

心理学は、期待が「期待した人」の関わり方を変えること、そして他人への期待の中に自分自身が映っていることを教えてくれた。スピリチュアルは、結果をつかんだときに苦しみが生まれ、行為そのものに心を尽くすときに人が自由になることを教えてくれた。

そして、三つの扉を通って、友人から学んだあの言葉が、少し形を変えて私の中に戻ってきた。

他人を直接変えることはできない。しかし、自分の関わり方が変われば、関係の動きが変わることはある。

ここで、もう一度ピグマリオン効果を思い出してほしい。子どもの変化に関わっていたのは、教師自身の関わり方だった。つまり、教員時代の私が信じていた「期待」も、実は「自分が変わる」ことだったのだ。

では、友人の「期待しない」はどうだろうか。

実は、性悪説という言葉は、「人は生まれつき悪人だ」という意味ではない。性悪説を説いた中国の思想家・荀子は、人は放っておけば欲に流されやすいからこそ、学びや礼、意識的な努力によって善へ向かっていける、と考えた。

友人の「教えなきゃ分からないから」という言葉は、まさにこの考え方だった。

そして、友人が部下に渡していたのは、期待ではなく、指示と目標という「要求」だった。要求は、言葉にできる。守られなければ、対応を変えればいい。結果を相手に委ねず、自分の関わり方を変える。それもまた、友人の選択だったのである。

性善説の私と、性悪説の友人。正反対の場所から出発した二人は、同じ場所に立っていたのだ。

温かい期待と、重たい期待

しかし、ここで一つの問いが残る。同じ「期待」でも、人を伸ばすこともあれば、押しつぶしてしまうこともある。この違いは、どこから来るのだろうか。

重たい期待とは、相手が重圧に感じる期待だ。「うざい」と感じてしまう期待。応えたくないと思わせてしまう期待。

一方で、温かい期待とは、愛に基づいた、思いやりのある期待である。その人が今持っている力を、さらにはそれ以上の力を、信じる。理由もなく、ただ信じる。その結果として相手に届くのが、温かい期待だ。

この違いは、心理学でも語られてきた。

無条件の肯定的配慮(ロジャーズ)

心理学者カール・ロジャーズは、条件をつけずに相手をそのまま受け入れる態度を「無条件の肯定的配慮」と呼んだ。

そして、この態度に包まれるとき、人は本来の力に向かって自然に育っていくと考えた。「理由もなく信じる」という温かい期待は、まさにこの態度に近いものだ。

教員だった頃、私はこれを何度も目にしてきた。

中学生は、褒めてもらいたいのだ。あまり頑張っているように見えないときでも、叱咤激励するより、「みんな、よく頑張ったよね。かっこよかったよ」と声をかける。すると、子どもたちの目がキラキラと輝き、顔がほころんでいった。

美術室で、生徒たちと作品を囲む教員

その言葉は、「先生は、君たちが好き。君たちを信じている」という表現だった。自分たちは、ダメな人間じゃない。よくできる、かっこいい人間なんだ。そう認めてもらえると、子どもたちは安心して生きていける。

そして、プラスの波動の中でプラスの人間関係が生まれ、安心のもとで勉強も運動も頑張れる。機嫌よく、ニコニコしていられる。温かい期待とは、こういうことなのだと思う。

自己決定理論(デシとライアン)

また、心理学者デシとライアンの「自己決定理論」によれば、人は自分で選んでいると感じるとき、内側からのやる気が生まれる。

反対に、外から動かされていると感じると、やる気はしぼみやすくなる。重たい期待が重圧になるのは、相手に「動かされている」という感覚を与えてしまうからだ。

つまり、二つの違いは、期待が向かう先にある。重たい期待は、「こうなってほしい」という結果に向かう。それに対して温かい期待は、結果ではなく、その人そのものに向かっているのである。

ピグマリオン効果で教師の声かけが子どもを伸ばしたのも、それが結果への要求ではなく、その子を信じる態度として届いたからなのかもしれない。

期待していないはずの私が、信じていたもの

そうは言っても、腹が立つこともある。仕事で、締め切りを過ぎても出てこない。催促しても、まだ出てこない。そんなときは、やはり怒りが湧く。

しかし、そこで「この人は、こういう人」と割り切る。そして、割り切ったうえで別のルートを考え、仕事を終わらせるのだ。

ところが、ここからが不思議なところである。心の中では期待していないはずなのに、メールには「さすが○○さん」と書いている自分がいる。すると、そのひと言が効くことがあるのだ。

その人も、たくさんの仕事を抱えているはずだ。それでも、私に関わる仕事を優先して考えてくれている節が見られる。

カフェで、笑顔で仕事の打ち合わせをする二人

考えてみれば、日本では、褒めることがあまり得意ではないように思う。下手というより、そもそも褒めない。仕事でも家庭でも、やって当たり前の世界だ。

しかし、私は褒めるのが好きだ。

以前、数か月ほど西ヨーロッパに滞在したことがある。そこでは、みんなが私のことを褒めてくれた。それは、安心感そのものだった。

一方で、私と違うところについては、よく質問された。否定するのではなく、質問として表現する。自分と他者は違う。そのことを理解したうえで、相手に関心を向けてくれていたのだ。

温かく期待されたら、人はやはり嬉しいのである。

では、なぜ私は「さすが○○さん」と書くのか。やはり私は教員出身なのだと思う。従わせる、やらせるのではなく、褒めて動いてもらいたい。その方が相手も気持ちがいいし、こちらも楽だ。

しかし、このページを書きながら、私はあることに気づいた。

他人に期待していないと思っていた私は、どこかで、人に期待していたのだ。

それは、結果への期待ではない。人の可能性を、信じる気持ちだった。相手は、自分の可能性を閉じかけているのかもしれない。自分で自分を狭めているのかもしれない。その扉を、開けたい。私は、そう願っているのかもしれない。

それがいいことなのか、悪いことなのか、正直なところ分からない。それでも、相手が気持ちよく仕事をしてくれるのが一番だ。

とは言いながら、私も怒ることはある。

先日、若い人から受け取った調査を、私はそのまま先方へ持っていった。ところが、その調査は間違っていた。

会社に戻ってから、怒りが込み上げてきた。本当は、裏を取らなかった私も悪い。それでも、ムカムカが止まらなかった。

そこで、瞑想の中で「自分が悪かった」と反省し、気持ちを処理しようとした。しかし、なかなか消えない。これは、自分の気持ちを相手に伝えるべき場面なのだと思った。

そして次の日、その人に言ったのだ。「私、怒ってますからね」。

それから、相手の私への接し方は少し変わった。人は、相手が怒る人か怒らない人かによって、無意識のうちに態度を変えるものだ。そのため、伝えてよかったと思っている。

温かい期待を持つことは、怒らない人になることとは違うのだろう。人を信じることと、伝えるべきことを伝えることは、両立するのである。

性善説で生きていた、20年前の教員の私。その私は、どうやら今もここにいたようだ。

期待が苦しさに変わる時

一方で、期待が自分を苦しめてしまう時もある。次のような時は、その期待が相手ではなく、自分の心の空白に向いているのかもしれない。

  • 口にしていないのに、察してほしいと思っている時
  • 「これだけしたのだから」と、見返りが前提になっている時
  • 相手の性格や生き方を変えたいと思っている時
  • 外れると、自分の価値まで揺らいでしまう時

「期待しない」と決めても、苦しいあなたへ

ここまで読んで、「それなら、期待しないと決めればいい」と思われたかもしれない。

しかし、実際にはそう簡単ではないはずだ。もう期待しないと決めたのに、あの人から返事が来ていないか、また受信トレイを開いてしまう。そして「もういいや」とつぶやくたびに、胸の奥が少しだけ重くなる。

それは、意志が弱いからではない。脳が見通しを立てることをやめないからだ。そして、期待が消えたのではなく、心の奥にしまわれただけだからである。

問題の核は、期待そのものではなく、期待の奥にある「満たされなかった何か」にある。わかってもらえなかった記憶や、ひとりで抱えてきた寂しさ。そこが静かにならないままでは、どれだけ頭で決めても、期待は形を変えて何度も顔を出す。

反対に、奥にある空白が満たされていくと、期待に振り回されることが少なくなっていく。相手がどう動くかに心を預けず、自分の状態を整えることに、力を注げるようになるのだ。

私自身、潜在意識の中にある不要な意識を削除していくうちに、怒ることが本当に減った。

旅の終わりに

最初にこの問いを立てたとき、私は「期待する私」と「期待しない友人」のどちらが正しいのかを知りたいと思っていた。しかし、三つの扉を開けたあとにたどり着いたのは、そのどちらでもない場所だった。

結果を期待することは、手放していい。しかし、人の可能性を信じることまで、手放さなくていい。

自分がいい状態でいれば、いい状態が起きる。そして、閉じかけた扉の前で、そっと声をかける。それが、この問いへの今の私の答えである。

川沿いの道を並んで歩く二人の女性

よくある質問

Q. 他人に期待しない方がいい?

一律にそうとは言えない。手放していいのは、相手の反応によって、自分の安心や価値を決めてしまう期待だ。一方で、相手の可能性を信じることは、関係を温かくする力になる。

Q. ピグマリオン効果の反対は?

ゴーレム効果である。「この人は伸びない」という低い期待が、関わり方を通して相手に伝わり、実際に力を下げてしまう現象を指す。

Q. 「他人と過去は変えられない」は、誰の言葉?

交流分析の創始者エリック・バーンの言葉として紹介されることが多い。ただし、一次資料での出典は確認しにくく、断定は避けるのが安全だ。


自分の期待が、相手の可能性に向いているのか。それとも、心の空白に向いているのか。ひとりで見分けるのは、意外と難しい。

もし、同じ場所に何度も戻ってきてしまう感覚があるなら、一緒に見ていけたらと思う。

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参考文献・出典

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  • 『バガヴァッド・ギーター』第2章
  • 『荀子』性悪篇