コードという名の鎖 第4話「蓋を開けたら」 〜占い依存、やめられない本当の理由〜

「もしもし、美沙さん?」

涼子先生の声だった。一瞬、間があった。

「……お久しぶりですね。」

涼子先生の声が上ずっていた。でもその「お久しぶり」という言葉は、蜂蜜のようにとろりとコーティングされていた。動揺を、やわらかく包んでいた。

美沙はそれに気づいていた。向こうがドギマギしている。でも表面はいつもの涼子先生だった。

美沙は、不思議なくらい平静だった。

3年ぶりの電話

あの土曜日のことを、美沙はよく覚えている。

半日出勤の日だった。土曜日に出るのは正直気が重かった。でも午前中だけだし、電話もほとんどない。職人さんたちとだらだらしゃべりながら、のんびり過ごした。アイドルの話で盛り上がった。誰が好きだとか、誰のここがいいとか。笑いながら仕事をした。

市ヶ谷の会社を出た瞬間、風が頬をなでた。

5月の風だった。夏ほど強くなく、春ほど頼りなくもない。やわらかい風。空を見上げると、街路樹の葉っぱが光を透かしていた。黄緑色だった。夏になれば濃い緑になる。でも今はまだ、やわらかい黄緑色。光にかざすと、ほんの少し透き通って見える。美沙はこの季節の葉っぱが好きだった。柔らかくて、まだ何者にもなっていない感じがして。

会社を出た瞬間、解放された。

電車に乗らなかった。乗りたくなかった。足が勝手に前に進んでいた。姿勢を伸ばして、大股で歩いた。大通りじゃなくて、脇道に入った。時折足を止めて、キョロキョロと周りを見回した。古いビルの壁の色、路地の奥の小さな看板、知らない店の窓ガラス。別に何を探しているわけでもない。ただ、見たかった。歩きながら世界を眺めるのが、美沙は好きだった。

歩きながら、小さな声で口ずさんでいた。

私はラッキー。私はハッピー。

脳天気でいい、と美沙は思っていた。本当にそんな気持ちだったから。歩きながら唱えると、なんだかさらに本当になっていく気がした。足取りが軽くなる。空が広くなる。

楽しかった。ただ、楽しかった。

整骨院の前で

T字路に差し掛かった。右に曲がれば、明るい大通りへ出る。左に曲がれば、細い坂道が続く。

美沙は左に曲がった。

なんとなく、そっちに足が向いた。後から知ったことだが、左は過去を表す方向だという。ユング心理学では、そういうことらしい。あの時の美沙がそれを知っていたわけじゃない。ただ、体が左を選んだ。

坂道を下り始めた。5メートルほど先に、小さな整骨院があった。

錆の浮いた白い看板。年季が入っている。昔からここにあるんだな、と美沙は思った。入口の脇に、黒板が置いてあった。白いチョークで、手書きの文字が書いてある。

「頭痛・肩こり・腰の重さ・お気軽にどうぞ」

丸みのある字だった。上手ではないけれど、温かみがある。誰かが毎朝書いているんだろうな、と思った。

その時だった。

するっと、何かが入ってきた。胸の奥が、ざわっとした。

痛みだった。誰のものかわからない。でも確かな重さがあった。助けてほしい。聞いてほしい。そんな感覚が、美沙の中に滑り込んできた。

そして、涼子先生の声が浮かんだ。

なぜかはわからなかった。ただ、浮かんだ。

魔が差した、と美沙は思った。でも本当は、拾ってしまっただけだったかもしれない。

蓋を開けたら

その夜、美沙は電話をしてしまった。

3年間、電話をしなかった。

我慢していたわけじゃない。必要がなかっただけだ。だからご褒美に、1回くらいいいだろうと思った。

なのに気がついたら、しゃべっていた。いじめられている金子さんのこと。経理の女のこと。職人さんたちのこと。あれこれと、次々と言葉が出てきた。

電話することで、白黒はっきりしてしまった。金子さん本人は、自分がいじめられているとちっとも思っていなかったと思う。でも美沙の中では決定打になった。盾になった。そして美沙自身がきつくなっていった。

おかしいな、と思った。悩んでいたわけじゃない。さっきまでルンルンと歩いていた。なのになぜ、こんなに出てくるんだろう。

鑑定士は、「悩み」という言葉をよく使った。美沙はその言葉が、昔から苦手だった。悩みを聞かれると、悩みが生まれる気がした。何でもないことが、急に悩みになる。その感覚が嫌で、美沙は自分でも「悩み」という言葉を使わないように用心深くしていた。

でも電話口では、その言葉が何度も降ってきた。マイナスのことを聞かれると、マイナスが出てきた。ネガティブなことを話すと、ネガティブな気持ちが生まれた。話せば話すほど、世界が少しずつ暗くなっていく気がした。

ネガティブなストーリーが、少しずつ作り上げられていった。

蓋を開けたら、重いネガティブという中身が出てきた。潜在意識の底に沈んでいたものが、言葉にされることで表面に浮かび上がってきた。でも、消えなかった。クリアリングされないまま、表面に残った。そこにネガティブのコーティングが重なっていく。

涼子先生の声は蜂蜜のように甘かった。でもその甘さの下で、ネガティブのコーティングが、じわじわと厚くなっていった。甘いコーティングと、ネガティブのコーティング。二重に塗り重ねられていく。

その甘いコーティングこそが、コードの接着剤だったのかもしれない。蜂蜜のような声が、美沙をつなぎとめていた。直接的な言葉なんてない。ただ、あの声を聞くたびに、何かがじわっと強化されていく。

離れようとするたびに、逆に引っ張られる。引っ張れば引っ張るほど、戻ってくる。まるでコードそのもののように。

蓋を開けるたびに、悩みが増えた。増えただけじゃない。その悩みが重くなったまま、表面に出てきたまま、消えなかった。電話を切った後の美沙の顔を、誰かが見たとしたら。幸せそうには、見えなかったと思う。

それが、毎回だった。

携帯を落とした日

ある日、携帯を落としてしまった。

鞄を探しても。ポケットを探してもない。

でもその瞬間、口の端がほころんだ。

「電話しなくて済む。」

一人で、静かに笑っていた。踊りたいような気持ちさえあった。その気持ちに気づいた瞬間、美沙は少し怖くなった。

警察署から連絡が来るまで、1週間以上かかった。最初の1日、2日は胸がざわついた。でも3日経ち、4日経つうちに、だんだん心が静かになってきた。妙に静かだった。心の浮き沈みもなく、一切電話をしなかった3年間の平和な日々に、急速に戻り始めていた。

コードがついていたとしても、電話ができない。だからホッとしていた。穏やかだった。体が、正直だった。

携帯が手元に戻った日も、電話をしなかった。したくなかった。「相手の手に乗ってたまるか。」と強く思っていた。利用されたくなかった。そのまま穏やかな日が続いた。

10日経ったあたりから、だんだんそわそわしてきた。14日目。気がついたら、指が動いていた。

するもんかと思っていた。でもそのことで、コードへの抵抗が逆に電話をしたいという気持ちを強化していたのかもしれない。必死に抵抗しながら、逆にコードに引っ張られていた。

携帯はその後も、2回落とした。合計3回。2回目は、3ヶ月。3回目は、半年。

気づけば、成長していた。コードの接続が細くなってきていたのか、接着面が弱くなってきたのか。いずれにしても、何かが少しずつ変わっていった。しかしながら、自分でコードを切るという感覚はまだわからなかった。

電話をしていた私と、していない私

美沙はその後も、派遣の職場をいくつか変わった。

電話をしていた時の美沙と、していない時の美沙は、別人だった。

電話をしていた時は、理想と現実の差を明確に提示し続けた。頭がせわしなく動いていた。今日の出来事を、鑑定士に話す言葉に変換しながら生きていた。ちょっとしたことが、電話によってネガティブな方に深みを増していった。電話をする理由を、逆に探していたのかもしれない。日常のすべてが人生の深掘りでもあり、電話のための素材にもなっていた。

電話をしていない時。ただ、そこにいた。周りの人たちと一つに溶け込んで、目の前のことをそのまま受け取っていた。空が青いと思ったら、ただ青かった。それだけだった。

電話は、美沙の「今ここ」を少しずつ奪っていた。

洗面所で

ある夜、気づいたら洗面所にいた。

手を洗っていた。念入りに。指と指の間まで、手のひらの皺まで。冷たい水が手を伝い、排水溝へと消えていく。手を洗い終わった後も、蛇口から流れる水の下に手を入れたまま、ぼーっとその様を見ていた。

冷たい。でも、離れられなかった。

30秒ほど経ったころ、はっと我に返った。水を止めた。

鏡の中の自分と目が合った。目がぱっちりと見開いていた。視界がクリアになり、目に輝きが戻ったのがわかった。

さっきまであんなに強く渦巻いていた「電話したい」が、どこかへ消えている。別の空間に来たようだった。

なぜ消えたんだろう。

美沙はしばらく、鏡の中の自分を見ていた。水。冷たさ。流れていく感覚。

あの「電話したい」は、私のものじゃなかった。向こうから来ていた。そして水が、コードを流した。

体は知っていた。頭より先に、ずっと前から。だから足が向いた。洗面所に、冷たい水に。

美沙は小さく息をついた。

怖いな、と思った。

コードは、こんなふうに静かに、日常の中に溶け込んでいる。

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